アシカセタウン

あたらしい家での生活がはじまった。朝起きて眺める色がわたしのすきな白色であるだけで、なにか贅沢をしている気持ちになる。出窓から差す朝日も、すきな人の寝顔も、すこし肌寒く鎮まった空気のなか点ける煙草も、すこしずつわたしの日常になっている。

やってみたかった電車通勤、定期券でぴぴっと改札に入れるのも、スーツのおじさんを眺めながら揺られる電車も、沿線の街並みを眺めてこんどあそこに行こうとぼんやりするのも、ぐらつく手元のなか書く日記も、いまのところ楽しい。空き時間には足りない家具をさがして、余白は必要だ、差し色のもたらすイメージ、デザインも派手ではなく質素でもなく、ああでもないこうでもない、と考えているのも楽しい。帰ったらすきな人と買い物に行って、ご飯をつくって(わたしは後ろで応援しているだけ)一緒に食べ、洗い物をしておなじ銘柄の煙草で一服して、そんな毎日がくるなんてやっぱり思えてなかった分、本当に楽しい。

けどやっぱり、慣れないことに疲れてしまうのも仕方がないことで。早起きをすることは睡眠時間を削ることだったし、家具が揃わないなかじゃ落ち着かないし、ごみを捨てちゃいたいのに曜日はやってこないし、そんな時に限って仕事は忙しいものだし、気づいたらわたしはへろへろだった。でも、つぎの仕事のこと、どうなりたいのか、そろそろ考えなくちゃな、


そんな時、母から電話がかかってきた。

あなたのことが心配で、ここ数日眠れない、と。

その言葉はとても愛に包まれているようで、切実でくるしくもあり、伝え方としては想像以上に重く、そんな言葉選びをさせている自分が情けなく、わたしの思考はそこでストップした。

ちいさい頃から、母に心配をかけることがとても嫌だった。自由奔放に過ごす兄2人を横目に、優等生として過ごし続けた学生時代。友達がたくさんいて、親戚の前では大人しく、職場に連れていかれると礼儀正しいと褒められ、担任の先生には信頼され12年間学級委員長を任された。典型的ないい子だった、と思う。

小学生の頃になりたかったインテリアデザイナーも、学校のパソコン室でこっそり調べて、収入が安定しない割に学費が高いから、という理由で諦めた。小学生なのに。

わたしが医療の道に進むのは必然で、持病と付き合うため、という母の刷り込みが大きかったように思う。けど、それだけじゃくるしくなることは子供ながらになんとなくわかっていて、自分なりに納得するための理由探しが上手になっていった。なにより収入が安定しているし。ずっとひとりだったとしても、資格があるなら生きていけそうだし、と思っていた。小学生なのに。

そうして手につけた職を辞め、先のみえない生活をはじめるというのだから母の動揺はたしかなものだっただろう。


でも、応援してくれたじゃない。

厳しいことも言うけれど、でも、やりたいことがあるならやるべきだと、自分も子を授かって諦めた夢があるからやるならいまのうちだと、背中を押してくれたじゃない。って、ただ、悲しくなった。

いつでもきっと応援してくれている、親心に心配は付き物なのだから仕方ないと、頭ではわかっている。けれど、母の本心がわからなくなってこわかった。本当はずっと安定した道にいてほしいのかと、探る自分の思考回路にもかなしくなった。それで揺れた気持ちにもさみしくなった。きっと、そんなところ。電話を切ったあと、すきな人の前で、かっこ悪い顔をして泣いてしまった。


先日、すきな人にヤンキーの話をされた。

思い当たるところがあって笑っていたけど、本当はもっと根底にあるものの例え話だと教えてもらって、わたしは否定した、はずなのに。

田舎の集まりのなか、周りの人の顔色を伺って本当の言葉を飲み込んで生きるのはやめたい、ここではわたしのままで生きれないから、と弱さを抱えて東京に出てきたの。それでも結局、安定を要求されると逃れられないのかと、地元を足枷のように思うことも、事実いまのわたしにとってはそうであることも、まあさみしくないといったら嘘になるんだけど。


いつまでも、地方出身であること、そのようなコミュニティを知っていること、そこで過ごしてきたことに、劣等感を感じて生きていくのかな。


それでもわたしは、自分のために生きたい。

例え明日いのちが尽きても後悔のないよう、毎日できるだけのことをやっておきたい。生きる意味なんて考える暇もないくらい、叶えたいことで頭がいっぱいなの。

そのときの気持ちだけで人生を選択するような子に育ってないことくらい、きっと母だってわかっているはず。


明日からの毎日も駆け抜けるために、しろい壁を眺めて眠ろうね。おやすみなさい