シンセイカツブルー
最近はなかなかに荒れた生活をしている。
ただの多忙、なだけなんだけど、充足感がすこしずつ削りとられていってしまってる現状はどうながめてもわたしだけじゃ力不足で。
仕事をどんなにがんばっても、すり減った靴底では生きた心地がしない。せっかく患者さんが笑いかけてくれても、全力疾走してる間のわたしの顔はきっとぎこちない。
家に帰ると段ボールの山がわたしを迎えいれてくれるのだけど、あちらこちらの棚は空っぽで、積まれたビニール袋からは昨夜泣きながらつめたぬいぐるみの黒いボタンがみつめてくる。
これからの浮かれた毎日がやってくるための反動を前借りしてるのかな、と思うくらい、なんだかこころが青みがかってきていて。せつなさでやりきれなくなるので、ここ数日、わたしの夜はすこし長くなっている。
たとえば空き時間に手続きをしたり、休憩しながら新居の家電を探したりと、我ながらとても引っ越しの段取りがよくて驚いてしまうのだけど、そういう地味で面倒なことは得意なので今更ほめる気にもならない。
もうすこし言ってもいいのなら、わたしが住む家のことだから、だれかと一緒に生活をするための道具なんて必要ないんだから、ひとりで全部やらなくちゃ、なにかあった時のためにもひとりで、ってずっと、つめたい気持ちで過ごしてる。
でも、シンセイカツブルーと名付けて、気にしないことにきめた。きっとそのうち、平気になるさ、って都合のいい言葉でごまかして。
そんな日々から抜け出したくて、新居で使う食器を買った。
おなじかたちをしたちがう色の茶碗と、おなじいろをしたちがう大きさのお椀。
それらがふたつ並んだ食卓と、ともに食事をするであろうひとの顔を思い浮かべながら。いつかひとりで使う日がくるかもしれないけど、なんてしょうもない自嘲を泳がせながら。
未だにそんな予防線をもうけてしまうのは、どうしてなんだろう。かたちがみえないことは、そんなにいけないことなのか。こころがつながったとおもう瞬間を掬い取って金魚鉢の水面にきらきらさせておくような、それくらいのことじゃだめなのか。
だめなんだよねきっと、だいじなことなの。
脱衣かごに脱ぎ捨てられた服を洗って、綺麗にたたんでおくようなことばかりしていても、呑みこんだ言葉までは聴こえてくれない。お揃いで買ったキーホルダーを並べてみても、画面をスクロールして写真をながめても、それらがあたためてくれるわけじゃない。
わたしの生活をはじめるために部屋を借りたのに、もうひとりの生活をおくるための余白でぎゅうぎゅうになっている。
親友と、愛について話したの。
着込んだコートも背伸びしたピンヒールも投げ捨てて、まるはだかで抱きしめあうような日々のこと、わたしはとても愛しいとおもう。何色のペンキを塗っても、輪郭は変わらない。そのうつくしい線で囲われたやさしい部分をみうしなわないように、たいせつに撫でてあげたい。
すきなひとに、生きているならなんでもいいよと話したら、ものすごい愛だね、と笑ってくれた。かたちに自信はなくとも、そうして受け取ってくれたことがうれしかった。
冬を生きたいわたしだけど、いまはすこし春に焦がれている。はやくその、やさしい陽光で季節を溶かしてほしい。さむくて冬眠しちゃいそうなひとのことを、ずっと待っている。