たよりない眠気

上京して7回目の梅雨がきた。でも未だにこの地域の季節の変わり目がよくわからない。梅雨入りしたかと思えば気持ちいいほどの青空をみせるし、かと思えばまたしとしとと雨が降る。荷物が多いのは苦手だけど、小雨で濡れた髪の毛があそんでしまうのも気が滅入るので、しぶしぶ玄関でビニール傘を手にとる。

サンダルと足指のあいだにすべりこむ水気も、結局つかわなかった傘も、まだしまえずにいる掛け布団も、まとわりついて湿気た肌も、なんだか知らないところで中途半端に操作されているみたいに思えて好きになれない。

そういえば眠れない日が続いている気がするけど、焦る気にもならないので月明かりの下で本を読み、煙草を吸い、猫を撫でる。恋人の長い睫毛と涎の痕跡を観察しながら、眠気がやってくるまでぼうっとしている。6月の夜ってこんなに長かったっけ、なんて思いながら。

 

この仕事をはじめて、ようやく2年が経った。とはいえ、よくわからない単語を検索画面に打ち込み続けたり、英語の論文をひたすら読まされたり、当初思い描いていたものとはちがうことのほうが多かった。

それでも、丁寧さや真面目さを認められて依頼を受けたり、クライアントに必要としてもらえたり、うれしかったことも沢山ある。

どうしてこの仕事をしたいと思ったのか、と問われるといつも言葉に詰まってしまう。どの程度まじめに答えればいいのか、このひとに話しても自分の熱量をわかってもらえないかもしれない、なんて迷っているうちにじぶんのなかでタイムリミットがきて、つい苦笑いを浮かべてしまうこともしばしばで。

 

感情は生物だから、冷めないうちに相手のくちの中に注いで飲み込んでもらうのが一番いい。でもそれが出来ないから、言葉が必要なんだと思っている。とりまく状況に左右されてあつくもつめたくもなる感情を、どう調理したら伝えたい味のまま相手に吸収してもらえるのか。

そんなことをずっと考えている、なんて言ったら笑われてしまうのかな。

感情だけじゃなく、意味のあるすべての物事を文字にする時には、過不足なく、どうかそのまま伝わっていてほしい。捻じ伏せられたり、誇張されて彷徨うこともあるけど、それでもそのひとのくちから離れるときには、納得のいくかたちであってほしい。

だから、意図を尋ねる、言葉を差し出す、自問自答する。その繰り返しで。この職業があることを知ったとき、おおきな迷路のなかで矢印を見つけたような、海岸で綺麗なシーグラスを拾ってしまったような、そんな気持ちだった。きっとわたしはばかみたいに欲張りで、ただ素直でいたいだけなんだと思う。

ふいに口遊んでしまうメロディ、これまで撮ったたくさんの写真のなかでもなんとなく記憶に残っている一枚、もう一度食べたいと思い浮かべた料理が盛り付けられた器、お気に入りのタオルケットの手触り。そんな風にして、そのひとのどこかに一節の言葉として残れたら。

 

なんてことを夢みてもわたしの言葉はまだまだ未熟で、引き出しもなかなか増えないし、無力感が拭えない出来事ばかりつづく。届いたと思ったはずの言葉も勘違い、あなたならちゃんと咀嚼してくれるはず、なんて思い違いも甚だしく、そういったことは大抵あとになってから気づかされる。

ひとの文章を校正しているうちは「あなたの思うままが伝わるのならこれがすべてなのだ」と思えても、じぶんのくちから離れるものに関しては赤字も青字も入り乱れ、わけがわからなくなってしまう。無責任な受け取り方を責めるのは簡単で、それが烏滸がましいことだともわかっているなら、こちらが手を替え品を替えやってみるしかない。

ただ、意に反することは言わない、過度に感情をのせたりしない、おおきい声でどうにかしない。それだけはずっと大事にしていたい。コミュニケーションは、パフォーマンスじゃないんだよ。

 

地元のことを思い出すと、盆地のせいかいつもじっとりしていた気がするけど、四季に関してははっきりしていた。梅雨はしつこい、夏は線香花火みたいに切なく過ぎ去り、秋は微睡む程度。冬はながいし、春までさむい。

わかりやすいところで惚けながら暮らしていた日々も、記憶からどんどん薄れてゆく。だから雑多な街の適当な空模様にちゃんと振り回されたふりをして、ようやくみえてきた輪郭をなくさないように過ごしたい。

 

そうしているうちにまた、6月になっているんだろうな。曖昧な四季はこの際どうでもいいから、猫の換毛期だけははっきりしてほしい。

 

猫のひげを3本拾った

気づけば三月、東京はもうすぐ春。

いちばんすきな響きだけど、いちばんこころがざわつく時期。

当たり前だと思っていたことはいつの間にかなくなっていて、たくさんのひとにはじめましての挨拶をしなきゃいけなくて、暖かい陽光が差し込んだと思いきやつめたい風に吹きつけられる、じぶんが持っていたものはなんだったんだっけって途端にわからなくなる、とんちんかんの塊みたいな季節。

 

だいすきなバンドがひさしぶりに新譜を出した。

やっと届いたそれはすべすべで、はじめてこのバンドのCDを手にした時もジャケットの質感に心躍らされたんだっけ、なんて考えてた。教えてくれた友人とはそのアルバムを本当に繰り返し聴いた。フレーズはどこを切り取っても格好良くて、いまの未完成な私達にぴったりだって勝手に共感して、どこにいくにも口遊んでた。そんな日々はもう、5年も前なんだってさ。

新しいアルバムも、うん、よかったよ。よかったけど、確かな月日の流れが拭いきれないような気がした、良くも悪くも。

いつまでもくすぶっていたとして、それは案外居心地いいのかな、わたしはどうしていたいんだろう、なんてぼうっと考えてしまうような、そういう印象だった。でももうしばらくしたらみえる色も変わってきそうだから、またあの頃みたいに何度も聴くよ。ギターも練習するね。

 

 

世間がまだこんな状況だからどこにも帰れず、物理的な距離を埋めるには電話くらいしか会話の手段がない。地元の友達に急かされて昼時から通話をすることになった。わたしはゲラとペンが離せないけど、まあいいかと思って話半分でうなずいたりする。

結婚と、育児と、マイホームの話。仕事の片手間でするにはすこし重すぎやしない?なんて苦笑いしながら、やっぱりだんだん頭がいたくなってくる。

 

どうしても何歳までに結婚したい、子供が欲しい、絶対に戸建てがいい。そんな、ひとりではどうしようもできない話を大きな声で話せる友人の奔放さや潔さが、すこしも羨ましくなかったといえば嘘になる。じぶんの意のままに相手に求め応じてもらうこと、それができる人はきっと幾分か生きやすいのかもしれない。

そういえば子供の頃はわたしもマイホームを建てるのが夢だった。結婚も出産もするものと信じて疑わなかったし、それは地元では当たり前のことだった。

でも、本当にいまもそうしたいと思っているのかな、これがただの刷り込まれた固定観念じゃないって言いきれる?なんて考え始めてしまってからはずっと、迷路に閉じ込められたような気持ちでいる。

 

むかし友人が「結婚しないなら別れるって彼女に詰め寄られて、いろんなことがどうでもよくなってそのまま別れちゃった」って話してくれた時、お互いのタイミングがあるからそればかりは仕方ないよね、なんて言った気がするけど、わたしはそれを言われる側には到底ならないんだろうな。とか。

「家を建てるなら二世帯住宅、子供は何人で、絶対にお小遣い制、あとは婿養子じゃないとだめ」なんて無茶にも思えるような条件を差し出してまで結婚を強いることと、恋人との穏やかな生活がすこしでも長く積み重なるように願うこと、だれがおなじ天秤にかけようとしたんだろう。とか。

 

考えても仕方がないことばかり浮かんでは、泡のようにはじけていく。息ぐるしい。なにがそんなに焦燥感を掻き立てるの。

 

だけど、いまがしあわせならそれでいいじゃないって、先のことばかり考えてもいまを見失ってしまったらどうしようもないじゃないって、ずっとずっと大きな声で叫んでいるつもりなのに、声帯を震わすはずの空気はここまで届いていないみたい。いい加減、喉が張り裂けそうな気すらしてくる。

 

 

日々のなかで確かなことは、眠れる場所があること、あたたかい灰色のねこがかわいい声で鳴くこと、朝焼けが綺麗なこと、美しいものをみて胸を震わす感性があること。それ以上も以下もなくて、わたしの心も、あなたの明日も、誰にもなにも決められないはず。

 

ちぐはぐな足跡すら愛しいと思えたらオールオッケーだよねって、足音がならないくらいの速度で歩いていたいよ。

 

目を瞑るとすぐに火花が弾けた

つい先日、ピアスを開けた。

それはなんてことない日に、なんとなく思いついただけのことだった。いまさらだなんて考えがよぎることもなく、誕生日がきたら開けちゃおう、と思った。わたしが28年間守ってきたモットーは、オーガンジーがひらりと舞うくらいの緩やかさで、呆気なく覆った。すべてはきらめきを逃さないためのこと。そういうタイミングをみつけたら、出来るだけ足取りが軽いほうがいい。

 

どうせなら、恋人に開けてもらいたいと思った。恋人のセンスやバランス感をそこはかとなく信頼しているから。それに万が一失敗したとしても、絶対に責めたり後悔したりしない自信があった。

でもどうかな、ばかばかしいと笑うかな、なんてもじもじしながら打ち明けたら意外にも恋人は乗り気で、「なにそれ、いいじゃん!」と笑ってくれた。ああ、このひとのこと好きだな、と思った。わたしが迷って迷ってしかたないようなこと、ちょうど良く振り払ってくれる。

 

恋人もピアスをつけてみたかったようで、せっかくだしふたりで開けっこすることにした。そんな、10年前に済ませていたかもしれないやりとりがまだ残っていたことが嬉しくて、気恥ずかしくて、可愛らしかった。

 

開けた後は、思ったよりすこし痛くて、ふたりでぼうっとしていた。耳元で震える指とか、開けおわった後にふたりの手のひらがじっとりしていたこととか、緊張をごまかすために上擦った声とか、弾けた欠片を集めるみたいな手つきでゆっくり思い出していた。

なんだか、ジェットコースターみたいだったな。終わった後に、びっくりしすぎて笑っちゃうような、こわいのとどきどきが一度にやってきた衝撃で感情の膜がうすくなる感覚。だって、またすぐに開けたいなと思っちゃってるし。

 

 

 

ーーー

ここまで書いてからもう、ひと月以上経った。ピアスの穴は落ち着いてきていて、もう痛くも痒くもない。

身体に開けた穴というのはある種の傷口で、でも今回のそれは肯定的な穴で、自分が望んでつけた傷口で。その、なんというか、塞がることを拒みながらまるい穴を保ったまま身体にそっくり呑み込ませるような所作を繰り返しているわけで。

わたしのこころに開けられた穴、正しくはこころじゃないのかもしれない、お腹やみぞおちのずっと奥の、すこし心臓にちかいような、時々きりきりするところ。そこをぎゅうと絞られると目の奥からなにかじわっと溢れてきてしまうようなところ。そこの穴は決して望んで開けたものではないけれど、それだって支柱を刺し続けることで傷口がそのうち安定してくるのかな、なんてばかなことを考えている。

ずっと、呑み込もうとはしているんだ。わたしの身体全部が、傷口ごとわたしのものにしてしまおうとしている。そういう自然な反応を取り続けている。それだけ。

いつかこの痛痒さも落ち着く。朝はやってくるし、だいすきな冬ももうすぐそこまできている。きっと、大丈夫。

グラタン皿のある家

ここ数日、雨がつづいている。以前ほど、天気の乱れをなぞるようにこころまで乱れることはなくなったけど、まだなんとなく足取りが重くなる。水溜りを避けるように歩かされている感覚や、歩き方に癖があるせいですぐに湿ってしまう靴下のかかとに気を取られてしまって、思考回路の微調整が効かない。

 

心身共に気怠くなりなかなか気分が晴れないので、ひさしぶりに爪を塗ることにした。前職が医療系だったこともあって、爪先はいつも清潔でなければいけないのが常になり、手先になにか装飾を施すことに抵抗があった。正直なところ、爪を塗るだけで女性らしさが露見してしまうようなニュアンスにも、まだすこし気遅れしてしまう。

でもいまはずっと鉛筆を持ち続ける仕事なので、必然的にじぶんの爪先をみつめ続けることになる。迷いに迷った結果、グレーのベースカラーに、ブルーのシロップを溢した。単純に、じぶんの好きな色が視界に入り続けるというのはいいものだった。曇り空にも溶け込みつつ主張を忘れないマットな質感のブルーグレーに、無理して明るく振る舞わなくていいのだと背中を押された気さえした。

 

そうして出かけた展示先のアトリエで、初対面のご婦人とお話する機会があった。物腰が柔らかく、たくさんのものを包み込めるような空気感を持ちながらも凛としていて、目尻に刻まれた笑い皺と高い位置の頬骨筋が印象的な、素敵な方だった。

居住環境が変わると、人間性も少なからず変わっていく、という話をした。確かに、ワンルームで暮らしていた時と比較すると、いまの2DKの部屋での暮らしは全然違う。家として持てるものも、過ごしやすさを保つための所作も、じぶんと恋人がそれぞれ所有するスペースに伴う余白の比率も。それらは密接に生活と繋がっていて、その積み重ねでわたしがつくられていくといっても過言ではないし、どうしても気が滅入る時に大掃除をはじめてしまうのも、無関係ではないのだろう。

 

恋人は、友人との会話の中で「家に食卓はあるか?」と聞かれたらしい。家のダイニングキッチンには、まるいテーブルと椅子がふたつある。それは、わたしが引っ越す前に間取りを確認して、絶対に欲しいときめていたもので。ふたりで食事をするためのスペースがあることに憧れていた、そんな時間がくることを願って買ったんだっけ、とぼんやり思い出した。(時々、恋人の作業スペースにもなるが)

 

帰り道、友人とドライブしていると、ふとグラタン皿の話になった。家でどうしてもグラタンが食べたくて、ちょうど良いお皿を探していたけど気に入るものがずっと見つからなくて。でもようやく好みのものに出会えて、その場で色違いを2枚購入した。嬉しくて浮かれていたはずなのに、水通しした後に干された2枚のグラタン皿を眺めていた時、じわっと重たく感じてしまったことを話した。

グラタン皿なんて、本来グラタンを食べる時にしかあまり選ばれない。いくらグラタンが好きとはいえ、使用頻度はかなり低い。そんなお皿を色違いで2枚購入した、勿論それはわたしと恋人の分を想定していて。ああ、この家をグラタン皿のある家にしてしまったんだ、と複雑な気持ちが拭いきれなかった。それ以来わたしは、食器を購入する時は必ずおなじ色のものを2つ選ぶようにしている。本当はいまでも色違いのマグカップがほしいけど、こころのどこかでこわくて選びきれずにいる。

 

いま思うと、家を借りたのも、家具や食器を選んだのも、わたしだった。じぶんで選んだものじゃないと好きになれないのがなんとなくわかっていたから。でも恋人はどうだっただろう、なんて考えはじめるときりがないけど。せめてわたしが選んだことを、悪くはないと思ってくれていたらいい。

 

 

何故か恋人ができてからの方が、異性に声をかけられる機会が増えた気がする。最近は、仕事先のひとからのデートのお誘いをやんわりと濁しつづけている。フリーランスは誰にも守られることがないから肩身が狭い。しかもそういう時に限って恋人は忙しく、コミュニケーションは不足し、互いに色々なことを後回しにしている時期が続く。

すこしつめたく聞こえるかもしれないが、恋人関係にあっても、この先もずっと彼の中では2番目以上の存在にはなれない。そんなわかりきった大前提は到底揺らぐことはなく、それでも尚わたしはいまの恋人を選び続けている。1番になれそうな機会はこれまで何度か他人から与えられていたのに、その度見てみぬふりをしていた。ほしいもの以外はすべて不要だったから。

 

これからも、わたしはじぶんに纏わるものについて選択を重ねていくことになるんだろうな。生きていくうえで当然の事でもあるし。だけどその選択が、側にいる人をどうしようもない気持ちにさせてしまう可能性を考えると、息をうまく吸い込めなくなる。ほしいものだけ側におきたい、ちゃんとじぶんで選んだものがいい、そうしていままで過ごしてきたけど、そんな最適な環境でいられたことは当たり前じゃない。

自由気ままに選択を重ねたいなら、ずっとひとりでいればいい。でも駆け引きなんて知らないし、大事なものは自ら手放せない。だからどうかその時はグラタン皿を一枚、持ち去ってくれると助かります。なんてね、

 

灰色のシミ

すべての仕事を家でするようになって、ほとんど化粧をしなくなった。家ではだいたい部屋着で過ごしているし、仕事中は髪の毛もひっつめてメガネのまま。隣駅に行く時だって、吉祥寺にほんのちょっとだけ用事を足しに行く時だって、すっぴんで出かけたりする。誰にも会わないだろうし、誰にみられているという意識もなくなってきていて、結構ひどい。それでもさすがに恋人の友人に遭遇しそうな時は、ちゃんと化粧もするし、お気に入りの服を着るし、コンタクトだっていれる。そうすると、ちょっとだけ自意識を取り戻せる。

恋人と電車を待っている時に、「ちゃんとしてる時としてない時の落差、結構激しいよね、わたし。」となんとなく聞いたら、「なんだろうね、マスクが似合わないんじゃない?」と言われた。マスクって、似合うとか似合わないとかある?否定も肯定もしない恋人の正直さが好きな反面、すこし落ち込みもしたけど、身なりを整えた時はちゃんと褒めてくれるので、この返答は受け止めなければと思った。

べつに化粧をしたところで派手な顔になるわけでもないし、お風呂上がりには「ちゃんとマスカラ落とした?」と聞かれるほど、感動的なビフォーアフターはないみたい。それでもきっと、自分の地味顔と向き合って、その日のコンディションでできる限りの施しをすると、瞳の奥からぴかぴかしてくる気がする。チープな表現だけれど、やっぱりお洒落は魔法だ。気に入った服や色味であるほど、それは効力を増す。

 

適当な日々が多かったせいか、最近のわたしは自信が底をついていた。元々自信はないほうだけど、ある程度の需要はあるんだ、くらいにうがった見方をしながらもなんとかバランスを保っていた。でも、誰かと比べたって仕方がないとは頭ではわかっているのに、アンインストールされてしまったみたいにブレーキが効かない。恋人が褒める女の子が気になって仕方がなくなったり、昔の恋愛事情を聞いてしまったせいで凡才な自分がまるで無価値なように思えたり。女性にはそもそも周期があるし、苦手な雨と湿気がつづくし、なんていったって寝不足だったし、いろんな条件が相まってなかなか酷かったなと思う。表立ってそういう気持ちを言葉にはしなくても、間合いや表情からは隠しきれず、なんとも居心地が悪かった。

そんな中からある日ぽかんと抜け出せたのは、化粧をしたことが大きかったんだと思う。わたしが好きな自分になれる、それだけなのに効果的面で。それから、本を読んだり短歌を書いたり好きなアイドルの映像をみたり、自分の時間を持てたこともよかった。苦手なのにちゃんとご飯を作って、三食食べたことも。

どれも当たり前のことばかりだけど、そんなことわかっていても、だめな時は一瞬でそれらに手を伸ばせなくなるから。ひとつひとつ、色んなことをポジティブに諦めたりしながらも、積み上げて繋げていった。

 

あと、最近意識を改めるようになった事があって。わたしはよく恋人の周りをうろちょろしているので、恋人の知人に紹介してもらう機会がおおい。でも、あくまでも恋人を介しての知人でしかないと思っていて。そっと線引きをして、深入りせず、されもしないように、曖昧な立ち位置を探していた。元々内気な性格なので、そういうのは得意だし、とさえ思って。

けれど、ある日恋人にその話をしたら、「そんなつもりで紹介した覚えはない。生冬と僕の友人と、そこには僕抜きでの新しい関係性が築かれるはずだ。」と言われた。ずしっと重たい一言だった。でも、わたしとは全く違う考えであること、そのこと自体を素直に受け入れられそうな自分がいたことが、嬉しくもあった。

恋人の友人にはこのアカウントが知られていないと思っていたのに、意外と気付かれていたという事実もあって。その気恥ずかしさを吹き飛ばすみたいに、意を決してある女の子をご飯に誘ってみた。

わたしはそもそも、誰かを誘ったり連絡を取り合うのがとても苦手で。予定を合わせたり、相手のタイミングを考えたり、どうしても色々な深読みをしてしまう悪い癖があって、ほとほと疲れてしまう。

でも、頑張って取り付けた約束は、とても楽しくてあっという間で、もう少し話してみたいと思ってたことを素直に伝えられただけでも、よかったなと思う。そういう、わたしが苦手だと思って閉じ込もってしまう部分の色々に対して、背中を押すのが得意な恋人に感謝した。

 

色々なことを諦めるのを得意だと思い込むのは簡単だけど、やってみれそうなチャンスとタイミングがあるなら逃さずにいたい。怖がって悪いことばかり数えてしまう悪い癖も、すこしずつ直したい。二十数年間こびりついてきたシミはなかなかとれないかもしれないけど、もし薄くなってきたら、そこにはちゃんとわたし色の化粧を施したい。わたしが好きになれそうな自分でいるために。

そんなことを思ってたら6月が終わっちゃいました。はやく冬にならないかな。