グラタン皿のある家

ここ数日、雨がつづいている。以前ほど、天気の乱れをなぞるようにこころまで乱れることはなくなったけど、まだなんとなく足取りが重くなる。水溜りを避けるように歩かされている感覚や、歩き方に癖があるせいですぐに湿ってしまう靴下のかかとに気を取られてしまって、思考回路の微調整が効かない。

 

心身共に気怠くなりなかなか気分が晴れないので、ひさしぶりに爪を塗ることにした。前職が医療系だったこともあって、爪先はいつも清潔でなければいけないのが常になり、手先になにか装飾を施すことに抵抗があった。正直なところ、爪を塗るだけで女性らしさが露見してしまうようなニュアンスにも、まだすこし気遅れしてしまう。

でもいまはずっと鉛筆を持ち続ける仕事なので、必然的にじぶんの爪先をみつめ続けることになる。迷いに迷った結果、グレーのベースカラーに、ブルーのシロップを溢した。単純に、じぶんの好きな色が視界に入り続けるというのはいいものだった。曇り空にも溶け込みつつ主張を忘れないマットな質感のブルーグレーに、無理して明るく振る舞わなくていいのだと背中を押された気さえした。

 

そうして出かけた展示先のアトリエで、初対面のご婦人とお話する機会があった。物腰が柔らかく、たくさんのものを包み込めるような空気感を持ちながらも凛としていて、目尻に刻まれた笑い皺と高い位置の頬骨筋が印象的な、素敵な方だった。

居住環境が変わると、人間性も少なからず変わっていく、という話をした。確かに、ワンルームで暮らしていた時と比較すると、いまの2DKの部屋での暮らしは全然違う。家として持てるものも、過ごしやすさを保つための所作も、じぶんと恋人がそれぞれ所有するスペースに伴う余白の比率も。それらは密接に生活と繋がっていて、その積み重ねでわたしがつくられていくといっても過言ではないし、どうしても気が滅入る時に大掃除をはじめてしまうのも、無関係ではないのだろう。

 

恋人は、友人との会話の中で「家に食卓はあるか?」と聞かれたらしい。家のダイニングキッチンには、まるいテーブルと椅子がふたつある。それは、わたしが引っ越す前に間取りを確認して、絶対に欲しいときめていたもので。ふたりで食事をするためのスペースがあることに憧れていた、そんな時間がくることを願って買ったんだっけ、とぼんやり思い出した。(時々、恋人の作業スペースにもなるが)

 

帰り道、友人とドライブしていると、ふとグラタン皿の話になった。家でどうしてもグラタンが食べたくて、ちょうど良いお皿を探していたけど気に入るものがずっと見つからなくて。でもようやく好みのものに出会えて、その場で色違いを2枚購入した。嬉しくて浮かれていたはずなのに、水通しした後に干された2枚のグラタン皿を眺めていた時、じわっと重たく感じてしまったことを話した。

グラタン皿なんて、本来グラタンを食べる時にしかあまり選ばれない。いくらグラタンが好きとはいえ、使用頻度はかなり低い。そんなお皿を色違いで2枚購入した、勿論それはわたしと恋人の分を想定していて。ああ、この家をグラタン皿のある家にしてしまったんだ、と複雑な気持ちが拭いきれなかった。それ以来わたしは、食器を購入する時は必ずおなじ色のものを2つ選ぶようにしている。本当はいまでも色違いのマグカップがほしいけど、こころのどこかでこわくて選びきれずにいる。

 

いま思うと、家を借りたのも、家具や食器を選んだのも、わたしだった。じぶんで選んだものじゃないと好きになれないのがなんとなくわかっていたから。でも恋人はどうだっただろう、なんて考えはじめるときりがないけど。せめてわたしが選んだことを、悪くはないと思ってくれていたらいい。

 

 

何故か恋人ができてからの方が、異性に声をかけられる機会が増えた気がする。最近は、仕事先のひとからのデートのお誘いをやんわりと濁しつづけている。フリーランスは誰にも守られることがないから肩身が狭い。しかもそういう時に限って恋人は忙しく、コミュニケーションは不足し、互いに色々なことを後回しにしている時期が続く。

すこしつめたく聞こえるかもしれないが、恋人関係にあっても、この先もずっと彼の中では2番目以上の存在にはなれない。そんなわかりきった大前提は到底揺らぐことはなく、それでも尚わたしはいまの恋人を選び続けている。1番になれそうな機会はこれまで何度か他人から与えられていたのに、その度見てみぬふりをしていた。ほしいもの以外はすべて不要だったから。

 

これからも、わたしはじぶんに纏わるものについて選択を重ねていくことになるんだろうな。生きていくうえで当然の事でもあるし。だけどその選択が、側にいる人をどうしようもない気持ちにさせてしまう可能性を考えると、息をうまく吸い込めなくなる。ほしいものだけ側におきたい、ちゃんとじぶんで選んだものがいい、そうしていままで過ごしてきたけど、そんな最適な環境でいられたことは当たり前じゃない。

自由気ままに選択を重ねたいなら、ずっとひとりでいればいい。でも駆け引きなんて知らないし、大事なものは自ら手放せない。だからどうかその時はグラタン皿を一枚、持ち去ってくれると助かります。なんてね、