猫のひげを3本拾った

気づけば三月、東京はもうすぐ春。

いちばんすきな響きだけど、いちばんこころがざわつく時期。

当たり前だと思っていたことはいつの間にかなくなっていて、たくさんのひとにはじめましての挨拶をしなきゃいけなくて、暖かい陽光が差し込んだと思いきやつめたい風に吹きつけられる、じぶんが持っていたものはなんだったんだっけって途端にわからなくなる、とんちんかんの塊みたいな季節。

 

だいすきなバンドがひさしぶりに新譜を出した。

やっと届いたそれはすべすべで、はじめてこのバンドのCDを手にした時もジャケットの質感に心躍らされたんだっけ、なんて考えてた。教えてくれた友人とはそのアルバムを本当に繰り返し聴いた。フレーズはどこを切り取っても格好良くて、いまの未完成な私達にぴったりだって勝手に共感して、どこにいくにも口遊んでた。そんな日々はもう、5年も前なんだってさ。

新しいアルバムも、うん、よかったよ。よかったけど、確かな月日の流れが拭いきれないような気がした、良くも悪くも。

いつまでもくすぶっていたとして、それは案外居心地いいのかな、わたしはどうしていたいんだろう、なんてぼうっと考えてしまうような、そういう印象だった。でももうしばらくしたらみえる色も変わってきそうだから、またあの頃みたいに何度も聴くよ。ギターも練習するね。

 

 

世間がまだこんな状況だからどこにも帰れず、物理的な距離を埋めるには電話くらいしか会話の手段がない。地元の友達に急かされて昼時から通話をすることになった。わたしはゲラとペンが離せないけど、まあいいかと思って話半分でうなずいたりする。

結婚と、育児と、マイホームの話。仕事の片手間でするにはすこし重すぎやしない?なんて苦笑いしながら、やっぱりだんだん頭がいたくなってくる。

 

どうしても何歳までに結婚したい、子供が欲しい、絶対に戸建てがいい。そんな、ひとりではどうしようもできない話を大きな声で話せる友人の奔放さや潔さが、すこしも羨ましくなかったといえば嘘になる。じぶんの意のままに相手に求め応じてもらうこと、それができる人はきっと幾分か生きやすいのかもしれない。

そういえば子供の頃はわたしもマイホームを建てるのが夢だった。結婚も出産もするものと信じて疑わなかったし、それは地元では当たり前のことだった。

でも、本当にいまもそうしたいと思っているのかな、これがただの刷り込まれた固定観念じゃないって言いきれる?なんて考え始めてしまってからはずっと、迷路に閉じ込められたような気持ちでいる。

 

むかし友人が「結婚しないなら別れるって彼女に詰め寄られて、いろんなことがどうでもよくなってそのまま別れちゃった」って話してくれた時、お互いのタイミングがあるからそればかりは仕方ないよね、なんて言った気がするけど、わたしはそれを言われる側には到底ならないんだろうな。とか。

「家を建てるなら二世帯住宅、子供は何人で、絶対にお小遣い制、あとは婿養子じゃないとだめ」なんて無茶にも思えるような条件を差し出してまで結婚を強いることと、恋人との穏やかな生活がすこしでも長く積み重なるように願うこと、だれがおなじ天秤にかけようとしたんだろう。とか。

 

考えても仕方がないことばかり浮かんでは、泡のようにはじけていく。息ぐるしい。なにがそんなに焦燥感を掻き立てるの。

 

だけど、いまがしあわせならそれでいいじゃないって、先のことばかり考えてもいまを見失ってしまったらどうしようもないじゃないって、ずっとずっと大きな声で叫んでいるつもりなのに、声帯を震わすはずの空気はここまで届いていないみたい。いい加減、喉が張り裂けそうな気すらしてくる。

 

 

日々のなかで確かなことは、眠れる場所があること、あたたかい灰色のねこがかわいい声で鳴くこと、朝焼けが綺麗なこと、美しいものをみて胸を震わす感性があること。それ以上も以下もなくて、わたしの心も、あなたの明日も、誰にもなにも決められないはず。

 

ちぐはぐな足跡すら愛しいと思えたらオールオッケーだよねって、足音がならないくらいの速度で歩いていたいよ。