昇華する日々

ここ数日、あたらしい住処に必要なもの、ここでさよならするべきもの、を取りわける作業をしている。きっともう使わないと思うなら、持っていても仕方がないし。なくして思い出せなくなるくらいなら、きっとわたしの生活においてもその程度の容量しか占めてないのだろうし。

…なんて、すこしドライな気持ちで。


わたしは割と収集癖があるほうで、これはあの旅行のときに買った思い出のもの、これはいつの誕生日のときにだれがくれたもの、と頭の中でタグ付けをしては、できるならぜんぶとっておきたいと思ってしまう。

それはきっと、幼い頃の思い出のものがほとんどないから。友達のお家は、保育園でのお絵かきを冊子にしたり、赤ちゃんの時の服やおもちゃがいくつか残っていたりしたのに、わたしの家には何もなかったし、子供ながらにそれをすごく寂しいと思っていた。もっといえば兄弟の中でいちばんアルバムも少なかったし、何度も引っ越しをしなければいけない環境だったからその度に写真や教科書、着なくなった服なんてものは全部捨てていた。ほんとに少ししか、むかしを覚えていないのもきっとそのせいなんだ。


そんなわけで、なにかと理由をつけては捨てられない日々を過ごしていた。ひとり暮らしをはじめた17歳の頃からは、とくに。ミニマムライフなんて馬鹿馬鹿しいとさえ思っていた。


いちばん捨てられなかったのが、手紙。わたしはむかしから手紙をかくのがすきで、日常のなかで思い詰まって言葉にできなかったことも、紙の上でなら綺麗にならべて伝えられた。仲の良い友人は事あるごとに手紙を添えてくれたし、元恋人もそうだった。


本当のことを言うと、さよならしてからのこの二年間、何度も読み返していた。一言一句記憶してしまったんじゃないかと思うくらい、十何通もの手紙を大事にしまっていた。

最初にくれた無機質な便箋にならんだ、揺れのみえる不慣れな文字。わたしがよく使っていた顔文字を真似てくれたり、いびつなハートマークに笑ったり。紙モノすきなわたしがずっと欲しかったレターセットをこっそり手に入れて、喜ばせようと書いてくれたなんでもない日の手紙も。全部たいせつだった。

すごく、すごく優しいひとで、小煩いわたしにもそっと合わせてくれるような、しずかな強さをもったひとだった。何があっても大切にしようって、思っていた六年前。自己肯定感の低すぎるわたしだったけど、こんなひとに愛されていたことに何度も救われた。手紙を読み返しても過去に戻りたいと思うわけではなく、すこし自尊心が立て直されるくらいのものだったけど、そのすこしがあるのとないのとでは全然心持ちがちがくて。じぶんの価値を手放さずにいられたのは、当時のあたたかさを覚えていたからだと思う。


そんな手紙を、さっき、全部すてた。写真も、データフォルダも、みえる限りのものは消した。

わたしはいままでもずっと、元恋人との写真とか、お揃いのカップとか、さよならしたから処分するなんてかなしいことできない性格で。気がむくまでずっと放っておいて、そういえばと思ったときにポイっとするの。それが一番、どこにも負担がかからないと思っていたし、飾っていたお花が干からびてしまったから掃除ついでに捨てる、くらいのことだった。それを意図的にしたのは、はじめてかもしれない。


わたしたぶん、もう大丈夫だなと思ったの。過去のあたたかさに縋らなくたって、じぶんの魅力も、機嫌の取り方も、ピンチのサインだってもうわかっているから。

時々顔をみて安心しなくたって、きみの幸せを心から願えるよ。きみが撮ってくれたかわいい笑顔の写真をお手本に思い描かなくたって、すてきに笑えるようになるよ。


だからどうかきみも、わたしからの便りが届かないところで、幸せに暮らしていてほしい。


いままでありがとう、と思って黄色い袋にいれた手紙。つぎの収集日はたしか金曜日だったけど、どうか、燃えるごみ以外の名前をつけて連れていってね。