蕾の積み木

つい先日、職場の研修修了式がありました。上京してからの日々は早いもので、青森の田舎娘はもう若手職員から中堅職員になってしまいます。

この4年間、だいぶ駆け抜けたなあ、と思いながらこれまでの研修風景をスライドショーでみてたんですけど、最後に1人ずつフィーチャーされたものがあって。わたしの紹介文のところに、「いつでもどこでも優しい笑顔で、後輩指導に長けている。癒しのリアルナイチンゲール」って書かれてたんです。それみて思わず笑っちゃって。


入職して、右も左もわからないなか直向きにがむしゃらにやってきて。配属先には同期もいなくて、お局に囲まれながら息苦しい日々を過ごし、やっと異動できたと思ったらその先の病棟では長年こびりついている団結力と仲間意識をまざまざと見せつけられて。

孤独感を拭えないままひたすら自分の仕事をこなしてるうちに、すこしずつ居場所みたいなものをつくっていって。不器用ながらも先輩に助けられ、患者さんや家族の言葉に救われ、そうしてなんとか繋いで重ねてきた日々だったんです、この4年間。

わたし自身まだまだ幼いところが隠しきれず、上手いことやり過ごすこともできず、感情的になってしまうこともしばしばで。つらいこと、くるしいことのほうが遥かに多い日々だった。それでも人の目には、笑顔のほうが多く映るんだなあ、って。


大学時代に大切にしようときめたのが「誰かに思い出してもらったとき、笑顔を浮かべられる自分でいたい」ということ。わたしは自分の笑顔が本当にすきじゃなくて、笑ってる写真なんて数えるくらいしかない。けど、患者さんの前では必ず笑顔でいよう、できるなら友人の前でもちゃんと心を開いて笑えるように関係をつくろう、と心では思っていて。それが少しでも、形になって示せていたのかなと思うと、嬉しくてこそばゆかったんです。


わたし自身、いまの仕事は向いていると思っていて。そう在るように人間性をじぶんで左右してきたのかはわからないけど。

わたしの仕事は、困っている人に手を差し伸べてちからになってあげること、その人の持つ可能性を信じて向き合うこと、支えること、望みを叶えるために必要なことを考えて助けになること、つらさや苦しさに寄り添うこと、その人の生活を支えること、そんな仕事だと思っている。偽善の境界線を思うと悩ましいけど、そうして誰かのちからになれることが、わたし自身嬉しかったり、生き甲斐を感じたりするし、やっぱり天職なんだろうなとも思う。

5月に退職することを決めてもなお、未だに揺れてしまうこころはそういう部分にあるんだと思う。この職を手放すことが惜しいとも思う、声に出さないようにはしていたけど。


この資格職を保険のように思わないでほしい、戻る可能性すら考えないでほしい、なんて親には偉そうに言ってみたけど、いちばん後ろ髪を引かれているのはわたし自身なのかもしれないな。


もうそろそろ本腰をいれて、つぎの職場を探さないといけない。遊んでばかりもいられないので、足りない知識を塗りつけるように最近はひたすら勉強している。どこでだってやっていける、と自信をつけさせてくれた4年間を無駄にしないように、明るい未来のことだけ考えていきたい。

ネガティブシンキングにはポジティブイメージを、って敬愛する柳下さんも言っていたし。


それにしても、癒しのリアルナイチンゲールって。ふふ。


アシカセタウン

あたらしい家での生活がはじまった。朝起きて眺める色がわたしのすきな白色であるだけで、なにか贅沢をしている気持ちになる。出窓から差す朝日も、すきな人の寝顔も、すこし肌寒く鎮まった空気のなか点ける煙草も、すこしずつわたしの日常になっている。

やってみたかった電車通勤、定期券でぴぴっと改札に入れるのも、スーツのおじさんを眺めながら揺られる電車も、沿線の街並みを眺めてこんどあそこに行こうとぼんやりするのも、ぐらつく手元のなか書く日記も、いまのところ楽しい。空き時間には足りない家具をさがして、余白は必要だ、差し色のもたらすイメージ、デザインも派手ではなく質素でもなく、ああでもないこうでもない、と考えているのも楽しい。帰ったらすきな人と買い物に行って、ご飯をつくって(わたしは後ろで応援しているだけ)一緒に食べ、洗い物をしておなじ銘柄の煙草で一服して、そんな毎日がくるなんてやっぱり思えてなかった分、本当に楽しい。

けどやっぱり、慣れないことに疲れてしまうのも仕方がないことで。早起きをすることは睡眠時間を削ることだったし、家具が揃わないなかじゃ落ち着かないし、ごみを捨てちゃいたいのに曜日はやってこないし、そんな時に限って仕事は忙しいものだし、気づいたらわたしはへろへろだった。でも、つぎの仕事のこと、どうなりたいのか、そろそろ考えなくちゃな、


そんな時、母から電話がかかってきた。

あなたのことが心配で、ここ数日眠れない、と。

その言葉はとても愛に包まれているようで、切実でくるしくもあり、伝え方としては想像以上に重く、そんな言葉選びをさせている自分が情けなく、わたしの思考はそこでストップした。

ちいさい頃から、母に心配をかけることがとても嫌だった。自由奔放に過ごす兄2人を横目に、優等生として過ごし続けた学生時代。友達がたくさんいて、親戚の前では大人しく、職場に連れていかれると礼儀正しいと褒められ、担任の先生には信頼され12年間学級委員長を任された。典型的ないい子だった、と思う。

小学生の頃になりたかったインテリアデザイナーも、学校のパソコン室でこっそり調べて、収入が安定しない割に学費が高いから、という理由で諦めた。小学生なのに。

わたしが医療の道に進むのは必然で、持病と付き合うため、という母の刷り込みが大きかったように思う。けど、それだけじゃくるしくなることは子供ながらになんとなくわかっていて、自分なりに納得するための理由探しが上手になっていった。なにより収入が安定しているし。ずっとひとりだったとしても、資格があるなら生きていけそうだし、と思っていた。小学生なのに。

そうして手につけた職を辞め、先のみえない生活をはじめるというのだから母の動揺はたしかなものだっただろう。


でも、応援してくれたじゃない。

厳しいことも言うけれど、でも、やりたいことがあるならやるべきだと、自分も子を授かって諦めた夢があるからやるならいまのうちだと、背中を押してくれたじゃない。って、ただ、悲しくなった。

いつでもきっと応援してくれている、親心に心配は付き物なのだから仕方ないと、頭ではわかっている。けれど、母の本心がわからなくなってこわかった。本当はずっと安定した道にいてほしいのかと、探る自分の思考回路にもかなしくなった。それで揺れた気持ちにもさみしくなった。きっと、そんなところ。電話を切ったあと、すきな人の前で、かっこ悪い顔をして泣いてしまった。


先日、すきな人にヤンキーの話をされた。

思い当たるところがあって笑っていたけど、本当はもっと根底にあるものの例え話だと教えてもらって、わたしは否定した、はずなのに。

田舎の集まりのなか、周りの人の顔色を伺って本当の言葉を飲み込んで生きるのはやめたい、ここではわたしのままで生きれないから、と弱さを抱えて東京に出てきたの。それでも結局、安定を要求されると逃れられないのかと、地元を足枷のように思うことも、事実いまのわたしにとってはそうであることも、まあさみしくないといったら嘘になるんだけど。


いつまでも、地方出身であること、そのようなコミュニティを知っていること、そこで過ごしてきたことに、劣等感を感じて生きていくのかな。


それでもわたしは、自分のために生きたい。

例え明日いのちが尽きても後悔のないよう、毎日できるだけのことをやっておきたい。生きる意味なんて考える暇もないくらい、叶えたいことで頭がいっぱいなの。

そのときの気持ちだけで人生を選択するような子に育ってないことくらい、きっと母だってわかっているはず。


明日からの毎日も駆け抜けるために、しろい壁を眺めて眠ろうね。おやすみなさい

シンセイカツブルー

最近はなかなかに荒れた生活をしている。

ただの多忙、なだけなんだけど、充足感がすこしずつ削りとられていってしまってる現状はどうながめてもわたしだけじゃ力不足で。

仕事をどんなにがんばっても、すり減った靴底では生きた心地がしない。せっかく患者さんが笑いかけてくれても、全力疾走してる間のわたしの顔はきっとぎこちない。

家に帰ると段ボールの山がわたしを迎えいれてくれるのだけど、あちらこちらの棚は空っぽで、積まれたビニール袋からは昨夜泣きながらつめたぬいぐるみの黒いボタンがみつめてくる。


これからの浮かれた毎日がやってくるための反動を前借りしてるのかな、と思うくらい、なんだかこころが青みがかってきていて。せつなさでやりきれなくなるので、ここ数日、わたしの夜はすこし長くなっている。


たとえば空き時間に手続きをしたり、休憩しながら新居の家電を探したりと、我ながらとても引っ越しの段取りがよくて驚いてしまうのだけど、そういう地味で面倒なことは得意なので今更ほめる気にもならない。

もうすこし言ってもいいのなら、わたしが住む家のことだから、だれかと一緒に生活をするための道具なんて必要ないんだから、ひとりで全部やらなくちゃ、なにかあった時のためにもひとりで、ってずっと、つめたい気持ちで過ごしてる。


でも、シンセイカツブルーと名付けて、気にしないことにきめた。きっとそのうち、平気になるさ、って都合のいい言葉でごまかして。



そんな日々から抜け出したくて、新居で使う食器を買った。

おなじかたちをしたちがう色の茶碗と、おなじいろをしたちがう大きさのお椀。

それらがふたつ並んだ食卓と、ともに食事をするであろうひとの顔を思い浮かべながら。いつかひとりで使う日がくるかもしれないけど、なんてしょうもない自嘲を泳がせながら。


未だにそんな予防線をもうけてしまうのは、どうしてなんだろう。かたちがみえないことは、そんなにいけないことなのか。こころがつながったとおもう瞬間を掬い取って金魚鉢の水面にきらきらさせておくような、それくらいのことじゃだめなのか。

だめなんだよねきっと、だいじなことなの。


脱衣かごに脱ぎ捨てられた服を洗って、綺麗にたたんでおくようなことばかりしていても、呑みこんだ言葉までは聴こえてくれない。お揃いで買ったキーホルダーを並べてみても、画面をスクロールして写真をながめても、それらがあたためてくれるわけじゃない。

わたしの生活をはじめるために部屋を借りたのに、もうひとりの生活をおくるための余白でぎゅうぎゅうになっている。


親友と、愛について話したの。

着込んだコートも背伸びしたピンヒールも投げ捨てて、まるはだかで抱きしめあうような日々のこと、わたしはとても愛しいとおもう。何色のペンキを塗っても、輪郭は変わらない。そのうつくしい線で囲われたやさしい部分をみうしなわないように、たいせつに撫でてあげたい。

すきなひとに、生きているならなんでもいいよと話したら、ものすごい愛だね、と笑ってくれた。かたちに自信はなくとも、そうして受け取ってくれたことがうれしかった。


冬を生きたいわたしだけど、いまはすこし春に焦がれている。はやくその、やさしい陽光で季節を溶かしてほしい。さむくて冬眠しちゃいそうなひとのことを、ずっと待っている。



昇華する日々

ここ数日、あたらしい住処に必要なもの、ここでさよならするべきもの、を取りわける作業をしている。きっともう使わないと思うなら、持っていても仕方がないし。なくして思い出せなくなるくらいなら、きっとわたしの生活においてもその程度の容量しか占めてないのだろうし。

…なんて、すこしドライな気持ちで。


わたしは割と収集癖があるほうで、これはあの旅行のときに買った思い出のもの、これはいつの誕生日のときにだれがくれたもの、と頭の中でタグ付けをしては、できるならぜんぶとっておきたいと思ってしまう。

それはきっと、幼い頃の思い出のものがほとんどないから。友達のお家は、保育園でのお絵かきを冊子にしたり、赤ちゃんの時の服やおもちゃがいくつか残っていたりしたのに、わたしの家には何もなかったし、子供ながらにそれをすごく寂しいと思っていた。もっといえば兄弟の中でいちばんアルバムも少なかったし、何度も引っ越しをしなければいけない環境だったからその度に写真や教科書、着なくなった服なんてものは全部捨てていた。ほんとに少ししか、むかしを覚えていないのもきっとそのせいなんだ。


そんなわけで、なにかと理由をつけては捨てられない日々を過ごしていた。ひとり暮らしをはじめた17歳の頃からは、とくに。ミニマムライフなんて馬鹿馬鹿しいとさえ思っていた。


いちばん捨てられなかったのが、手紙。わたしはむかしから手紙をかくのがすきで、日常のなかで思い詰まって言葉にできなかったことも、紙の上でなら綺麗にならべて伝えられた。仲の良い友人は事あるごとに手紙を添えてくれたし、元恋人もそうだった。


本当のことを言うと、さよならしてからのこの二年間、何度も読み返していた。一言一句記憶してしまったんじゃないかと思うくらい、十何通もの手紙を大事にしまっていた。

最初にくれた無機質な便箋にならんだ、揺れのみえる不慣れな文字。わたしがよく使っていた顔文字を真似てくれたり、いびつなハートマークに笑ったり。紙モノすきなわたしがずっと欲しかったレターセットをこっそり手に入れて、喜ばせようと書いてくれたなんでもない日の手紙も。全部たいせつだった。

すごく、すごく優しいひとで、小煩いわたしにもそっと合わせてくれるような、しずかな強さをもったひとだった。何があっても大切にしようって、思っていた六年前。自己肯定感の低すぎるわたしだったけど、こんなひとに愛されていたことに何度も救われた。手紙を読み返しても過去に戻りたいと思うわけではなく、すこし自尊心が立て直されるくらいのものだったけど、そのすこしがあるのとないのとでは全然心持ちがちがくて。じぶんの価値を手放さずにいられたのは、当時のあたたかさを覚えていたからだと思う。


そんな手紙を、さっき、全部すてた。写真も、データフォルダも、みえる限りのものは消した。

わたしはいままでもずっと、元恋人との写真とか、お揃いのカップとか、さよならしたから処分するなんてかなしいことできない性格で。気がむくまでずっと放っておいて、そういえばと思ったときにポイっとするの。それが一番、どこにも負担がかからないと思っていたし、飾っていたお花が干からびてしまったから掃除ついでに捨てる、くらいのことだった。それを意図的にしたのは、はじめてかもしれない。


わたしたぶん、もう大丈夫だなと思ったの。過去のあたたかさに縋らなくたって、じぶんの魅力も、機嫌の取り方も、ピンチのサインだってもうわかっているから。

時々顔をみて安心しなくたって、きみの幸せを心から願えるよ。きみが撮ってくれたかわいい笑顔の写真をお手本に思い描かなくたって、すてきに笑えるようになるよ。


だからどうかきみも、わたしからの便りが届かないところで、幸せに暮らしていてほしい。


いままでありがとう、と思って黄色い袋にいれた手紙。つぎの収集日はたしか金曜日だったけど、どうか、燃えるごみ以外の名前をつけて連れていってね。



しろいひかり

新年をむかえて、街のにがてな雰囲気をなんとなくかわしながら過ごしていたらもう、一週間がすぎていた。

つい先日、入居希望の物件にキャンセルがでたので、電車にとびのってすぐに契約した。慎重なわたしの性格からは考えられないくらい、ながれに身を任せたことだった。だれかに背中をおしてもらってるような、みしらぬ風につつまれてるような、不思議な気持ちのまま、契約書にはんこを押した。

順番が逆になってしまったなと思いつつ、それからお部屋の内覧をした。

わたしのすきなオフホワイトの白い壁、間取りもぴったり、すこしふるいけどきれいで、しずかな部屋だった。窓がおおきくて、となりのお家との距離はちかいけどちゃんとひかりもはいる、思ったとおりの空気感。

帰りは、最寄りまであるいて帰った。駅が栄えてないから、まだなにもお店をみつけられなくて、地図をたよりにお散歩した。

春の匂いを想像してしあわせになった、ってすきな女性がかわいいことを言うもんだから、わたしも嗅覚をはたらかせて、こころを落ち着かせるように街のにおいを確かめた。


引っ越しすること、たのしみで仕方ないのだけど、すこし寂しくもなった。

わたしはいまの、この街のこと、すきなんだなと思った。だいすきな服屋があって、美味しい珈琲も飲める、にがてだったカレーパンをすきになるくらい美味しいパン屋もあるし、ふらっとはいれるいつもの飲み屋もある。駅から家までは遠いけど、その間のながい坂道がとてもすきだった。車はびゅんびゅん走るけど、見通しがよくて、ずっと先の信号機までみえる。赤と緑が混在する夜の灯りが、泣いたり笑ったりするわたしの帰り道のお供だった。

部屋のことも、すきなのだ。ふるくて、エレベーターがなくて、だれも気にしないから階段がきたなくて時々わたしがお掃除してた。駅から遠いし、フローリングじゃなかったし、ガスコンロもなかった。最初はこんなところに住むなんて、ゲーって感じだったのに、四年もいたら愛着が湧いていた。なにより、窓がおおきくて、日差しがやわらかいのだ。冬のひろい寒空のなかに枯れ木がさしこむ風景も、窓際のわたしのベッドにはいるあたたかい陽光も、そこでタオルケットにくるまってする日向ぼっことお昼寝も、お月様がよくみえるのも、すきなのだ。すきなひとと、寒いねってくっつきながらあたためたミロを飲み、ベランダで煙草を吸うのもすきだった。この部屋、なんだかんだいっても、出ていきたくないのかもしれない。


それでもわたしを待っているのは新生活なわけで、お仕事をやめるならこの部屋には居られないわけで。そう考えるとやっぱり、すこしさみしい。

でもいまのわたしは、素直に新しいことを心待ちにできている。ほんとうは環境が変わることも生活が変わることも得意じゃないはずなのに、何故だかいまのわたしは大丈夫なのだ。

新しい部屋でも、街でも、お気に入りのことがたくさんみつかるといいな。いろいろなものを愛せるくらい、わたしの心待ちも穏やかであれたらいいな。


冬と春の間のしろいひかりをいっぱい、いっぱい吸い込んで、色々な変化をうけいれたい。生活がたのしみだ。