パターソン

洗いたてのタオルケットが好きだ。素足で冷たいシーツをなぞる時の心許ない心地よさを、ほつれた糸のせいでざらついた布がうまく絡めとってくれる。タオルケットは、使い古してぼろぼろであればあるほどいい。どんなにおひさまの香りを纏っても、所詮は繊維の集まりなので家庭の匂いが染みついてしまっている。顔を埋めて吸い込んでみても、おひさまのなかから微かにのぞく、わたしと恋人と、ねむの暮らし。

 

つい先日、映画をみた。映画についてはなかなか疎いほうだと思うけれど、聞き覚えのあるタイトルだったのと、友人がその監督のTシャツを着ていたことを覚えていたので、なんとなく選んだ。

主人公とおなじ名前の都市の文字を浮かべたバスが出発するシーンがすきだった。準主役ともいえそうなイングリッシュ・ブルドッグが、わたしの飼ってるねこに似ていた。主人公の恋人のテキスタイルデザインがどうも受け付けなくて、苦笑いするしかなかった。外国の言葉でも、愛犬に甘い口調を使うときの発声方法は似ているんだな、と思った。主人公の、やさしく笑ってすべてを肯定しているようで、でも本当に言いたいことは飲み込んでいるようなあの煮え切らない感じが、むかしの恋人にそっくりだった。そこでようやく、記憶の片隅をなぞりながら観ていたことに気づく。どこにでもある、単調で確かな7日間の話。

 

隣で一緒にみていた恋人は、彼女のつくるカップケーキが全部売れるといいね、と言った。普段は意地悪ばかりしてくるのに、時々そんな優しいことを言ったりもするから、驚いてしまう。

わたしはというと、売れても6割くらい、出来ればそうであってほしい、なんて思っていた。だって、このままバスの運転手で本当にいいの?あなたの詩は最高なのに?この週末にカップケーキがすべて売れたらわたしはお店をひらくわ、みたいなことを彼女が仄めかすから、どうかそんなにうまく事が運ばないでほしい、と距離をとりたくなったのだ。たとえ才能がなくても、ただの趣味でも、単調な生活のなかで唯一潜り込んでいる大切な時間に、夢みがちな少女が土足で入り込んできたようで不快に感じた。あとね、そのたったワンシーンでわたしのこころの狭さが露見したのもこわかった。

結局彼女はカップケーキ女王になるし、大切にしていた詩のノートはびりびりだし、わたしのお腹はぐにゃりとしたまま、どうにも立ち直れなかった。

映画を観終わると、よかったね、と恋人が言った。よかったらしい。わたしはすきな映画だったけど、恋人の趣味やストライクゾーンは幅広くていまいち掴めない。よかったならよかったや。わたしの方もよかったよ。

 

そういえばわたしには、映画をみて、よかったよと言える友人がほとんどいない。映画に限らず、漫画も小説も、その内に深く潜り込んでしまったような作品について、とにかく話すことがない。びりびりしびれたあの感覚から言語に変換するためのメカニズムを、いつまでもモノに出来ずにいる。

恋人は隣で、よかったよ、と友人にも連絡していた。なにがよかったと思ったのか、わたしは知らないまま、わたしのびりびりも、恋人は知らないまま。指先はすこし遠くにあって、ずっとかさぶたを引っ掻いていた。

 

最近、やたらぼうっとしているような気がする。自粛生活のせいかとも思ったけど、家にいるのは元々苦じゃなかったし、仕事もありがたいことにそこそこ忙しい、家事もちゃんとやってると思う、ごみ捨てだってさぼってないよ。

でも、なんていうか、思考が末梢でちぎれてしまって、通わなくなる。些細なことが気になって抜け出せなくなったり、頭ではご飯を美味しいと思っているのにどこか感覚がとおかったり。なんだか噛み合わせがよくなくて、歯車の溝が擦り減っていくのに似ている感じ。やだな。白熱灯の映り込まない瞳だ。

 

淡々と過ぎていく日々、手の平の上で躍るねこは尊い、それからおはようの合図はなくなって、塗りたての壁にそっと触れた、ちいさく唸る隙間は気づかずに消えて。

映画のなかで毎朝おおきな男が食べていたちいさなコーンフレークみたいにはなりたくない。せめてわたしもあの犬みたいに、足取りかるく、愉しく愛しく在れたらいいのに。

もう朝だよ。おやすみなさい。